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2008年3月 3日 (月)

オッフェンバック

オッフェンバックは、ドイツで1819年に生まれ、後にフランスに帰化して、フランスで大衆に大人気の作曲家となりました。
ちなみにウィーンで大衆に大人気となったヨハン・シュトラウス2世は彼の6年後に生まれたので、ほぼ同時期の作曲家といえます。

ジャック・オッフェンバックという名前は作曲のペンネームです。父の出身地であるドイツのオッフェンバック・アム・マインの地名からとりました(本名はヤーコブ・レヴィ・エーベルスト)。
父は製本業者でしたが、ケルンで評判のヴァイオリン奏者でもありました。

1833年、14歳のオッフェンバックは、チェロの勉強のため、フランスのパリ音楽院に留学しました。そこで彼は、優秀な成績で、皆に天才と卵と認められるようになります。

しかし彼は、規則ばかりの和声や対位法にうんざりし、パリ音楽院を中退してしまいます。
当時から彼は、「楽しくなければ音楽じゃない」と主張していました。

演奏の傍らで作曲活動を続け、1850年には、テアトル・フランセの指揮者になりました。
さらに、自分の作品を発表する専用の劇場を望んだ彼は、1855年に小さな演劇小屋の興行権を入手し、ブッフ・パリジャン座という劇場をオープンしました。
オッフェンバックは、この劇場ですぐにいくつもオペレッタを上演し、人気を博すようになります。

オペレッタの原型を作ったのが、まさにオッフェンバックです。

当時、パリ・オペラ座はすでに存在し、オペラやバレエが上演されていました。
しかし、当時のオペラは上流階級の楽しみとして高級化され、難しい芸術性を誇示するような風潮がありました。オッフェンバックは、このようなパリ・オペラ座の権威主義を嫌っていたのです。

そのようなオペラを、オッフェンバックは大衆のために徹底的にパロディ化しました。

ギリシア悲劇や文学作品の筋書きを、当時の世の中や政治家への強烈な風刺を交えながら、こっけいな喜劇に書き換え、役者は大げさに演じました。音楽にもパロディがふんだんに盛り込まれましたが、それでいて、音楽性も高い作品となりました。

オッフェンバックが作り出した新しいジャンルの舞台に、教養人も大衆も夢中になり、笑い転げました。世界各国のパリ駐在大使館は、自国の王様や大臣がパリを訪問するときには、ブッフ・パリジャン座の切符を取っておくことが一番大事な仕事といわれたそうです。

当時は、劇場ごとに上演できる作品分野が政府によって厳しく定められており、ブッフ・パリジャン座は、はじめは登場人物が二人の作品しか上演できませんでした。
しかし、オッフェンバックの交渉により、やがて3人、4人と許可され、ついに自由に大人数の舞台も上演できるようになりました。

1858年、大人数の舞台が許可されて最初に上演した演目が、代表作である「天国と地獄(地獄のオルフェ)」です。この曲は大人気を博しました。

その後も次々と発表されるオペレッタは人気を博し、その人気はヨーロッパ中に広がりました。イギリスやイタリアでもオペレッタが人気となりましたが、特にウィーンでは「ウィーン・オペレッタ」として大流行しました。ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ作品「こうもり」もそのひとつです。

オペレッタの流行は、今日のミュージカルにまで受け継がれているといわれています。

オッフェンバックは、1880年に亡くなりました。
大流行したオッフェンバックですが、晩年の頃には一時の人気を失いました。そんな彼が最後に渾身の力をこめて作曲した作品は、喜劇のオペレッタではなくて、本格的なオペラ作品でした。それが「ホフマン物語」です。実は未完に終わった作品ですが、オッフェンバックが亡くなった翌年、エルネスト・ギローの補完により完成し初演され、オッフェンバックの代表作のひとつとして後世に伝わることになりました。

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